あの時の東北へ -3-

石巻から北へ。
南三陸の志津川へと向かう。ここは僕が見た中ではもっとも被害が大きかったような場所で、ずいぶんと記憶に残っていた。ある意味、復興の過程をしっかりとみたいと思っていたし、期待していた。

中にいないので、外からの印象しかわからないけれど、それはあまり進んでいないように見受けられた。がれきの山は以前より高くはなく、基礎だけ残ってそれ以外のものが取り除かれた大地は、比較的キレイだ。でも、散らかしたおもちゃを片付けたような。そしてその後は何も手をつけていないような。そんな印象だった。


被災地観光バスがひっきりなしにやってきて、役場跡を見学していた。
そこからは海岸沿いに北へ。

がらんとした平野を走る。
確かにとてもキレイにはなっている。でもそれは整理されただけだし、ここにまた人が住むのかは不明だろうし。かといって、完全な更地にするのも時間がかかるのかもしれず、いろいろあるのだろうなと思った。
簡易コンビニや簡易商店街みたいな場所をいくつか目にした。

都会ではきっと多くの人が東北のあの震災を、もう過ぎたこととして過ごしているのだろうけど、ここではまだ現在進行形だ。

2時間くらい走って気仙沼に着く。
ここは広大な大地がしっかりと整地されていて、がらーんとしていた。
この面積がすべて津波にのまれたのかと思うと、本当にびっくりせざるをえない。ただただ唖然とするばかりだ。一年前に訪れた復興市場もまだ普通に営業している。

一駅先の鹿折唐桑駅へ。ここには陸に上がってしまった巨大な船があった。
現在地元の方と行政とで震災遺産として残すか否かをややもめているところと聞いた。

地元の人の気持ちもあると思うけど、僕は残すのにおおむね賛成だ。
お昼は、唐桑の復興市場で。いくら丼を食べて、たくさんのお土産を買った。

ムスコがまだ1歳なので、そして家は500km以上離れているので、お昼には帰ることになった。慌ただしい滞在だったし、通り過ぎるだけだったし、ボランティアなどをしたわけではないから、地元の人の生の声は聞いていないけれど、それでも来れて良かったなと本当に思う。

東北は忘れないよ。ちゃんと思いを馳せ、しょっちゅう来られるわけではないけれど、来られる時にまた来たいと思う。

あの時の東北へ -2-

夜は郡山に泊まった。
朝は一路北へ。

仙台で、ちょっと観光。建築好きの嫁さんのリクエストにより伊東豊雄設計の仙台メディアテークを訪れた。外観は特に際立った特徴は感じられなかったけれど、内部の細部というか、細かいところがかなりかっこ良い建物だった。

東北に行きたいとずっと思っていた。
被災地を失礼ながら訪問して、復興の過程をしっかりと見ておきたい。子どもを産んだばかりで行けなかった嫁さんにも見てもらいたいとも思った。何より、あまりにもあの地を感じられない日常生活を送る中で、北の大地も忘れていないんだよ、と自分自身に言い聞かせたかったのだと思う。何かしたい、とは思っているのだけれど、その何かという具体的行動がわからなくて、やっぱり行動派の自分としては行くのがいいと思った。でも、ボランティアもせずに、被災地だけを巡るのはどうなんだろうとも思った。目的はいったいなんなんだろうか。何をしにいったらいいんだろうか、と。
だったら東北を観光で訪れる、というのがいいのではないか。それが今回最もしっくりとくる目的なのではないだろうかと思ったのであった。

仙台の後は日本三景、松島へ。ここも津波でかなりの被害を受けたと聞いていたけれど、幸いにも観光客はかなり戻っているようだった。橋はまだ壊れていたり、「がんばろう東北」「がんばろう松島」という表示も見かけたけれど、比較的元気な姿を見ることができたように思う。

そして今日の宿泊地、石巻へ。ムスコがお昼寝してしまったので、一人で北上川へと向かった。
ボランティアで訪れた地。
徹夜で運転して辿り着いた道の駅。
道中波打って崩れていた道路。ボランティアで綺麗にした民家や学校。崩壊した橋や材木や船が散乱していた田んぼ。それらを思い出しながら、夕暮れの北上川を海へと向かった。

あの時の田んぼ

今日の田んぼ

川沿いの道路は過剰なほど、立派に再生されていた。田んぼはすっかり綺麗になっていた。そして何より感動したのはあのとき崩壊していた大きな橋が復活していたこと。夕焼けの綺麗さと相まって、なんだか感慨深い景色だった。

車を降りて、大川小学校へと行った。
被災地観光というようなものがあると聞いていたけれど、そのようなタクシーが数台。視察系の人がパラパラ。一年以上前に訪れた時は、スクラップされた車や、建物の基礎が残っていたけど、すべては片付けられ、クリアにされ、小学校が残るのみだった。

あの時の電柱

今日

あの時の小学校付近

今日

なくなったたくさんの子どもたち。そして残された家族。子どもを持った今だから、かもしれないけれど、何度想像しても胸がつまるほど痛く悲しい。当事者でもなんでもなく、ただの傍観者で赤の他人だけれど、涙が頬を伝う。いろいろ想うことがあり、そしてその想いを胸に秘めながら、道の駅で暖かい缶コーヒーを買って、自分の子どもの元へと戻った。

あの時の東北へ -1-

11月の終わりに、東北へと向かった。その時のことを書こう書こうと思いつつ、最近のブログ離れから筆が全く進まない。もちろん、行った後にどう心を整理しよう、と思っていることもあって書かなかったというのもある。でも自分への教訓としては、常に文章は書いていくべきだと思う。文を書いて、深く考えていくべきなのだと思う。なのでこれを機にもう少しちゃんと更新しようと思う、自身の日記的なブログとして。

初日は嫁さんのひいおばあさんが住む福島県いわき市へと向かった。常磐道はもちろん途中から通行止めとなる。これは当然原発がその先にあるからだ。1年以上前に訪れた時よりも、ずいぶんと道路はフラットになったけれども、それでも福島が近づくと、波打つ箇所もある。余震も原発も、ここでは収束していないのだと、本当に思う。

おばあさんと会った後、おじさんが被災した海岸線をじっくりと案内してくれた。
南三陸や気仙沼の規模とは全く異なると思うけれども、ここでも家が丸々流されてしまった地区がいくつかある。そしてその場所にはコンクリートの断面が残るだけで、今も復元の兆しはない。津波や地震の被害よりも、やはり原発のインパクトの方が、今も続いているという意味では根強いのではないかと思った。

たくさんの仮設住宅。それらは主に原発により家を奪われた人たち。保証金がある程度でて、日中働かなくて良い人も多いみたいなのだけれども、元からいわきに住んでいる人の中には「あの人たち働かないでも生きていける」的な批判的な考えを持っている人もいると思う。だからそこに意識の壁が生まれつつあるわけで。同じ福島なのに、悲しいなと思う。その仮設にいる人たちだって、一番いいのは仮設にいないことに違いないから。

海にはサーファーがいた。それがどの程度「戻っている」のか、普段より少ないのか多いのかわからないけれど、でもとにかくそこにはサーファーがいた。観光魚市場はかなりの活気だった。
ある意味、ここには関東に暮らす自分との意識のギャップがあった。放射能、大丈夫なんだろうか、と。

現実を見た上での、影響がないという判断なのか。現実を直視するのを止めたのか。思考しなくなったのか。あきらめたのか。それとも共存していこうとしているのか。ただ、すべての海産物の影響はゼロとは言えない事実やデータはあるわけで。遠くはなれた僕にはきっとわからないことだろうし、口を挟むことではないのかもしれない。

ガイガーカウンターを持参して訪れた一回目。親に止められながらも、ムスコをばあさんに見せにきた2回目。そして今回の3回目のいわき。自分のマインドも、周囲を取り巻く環境も毎回異なるけれども、毎回来て良かったなと心から思う。

陸前高田へ

今回のバスはレーベン号といって、茨城の中古車会社さんがバスを提供している。震災からほどなくして、バスを出し始め、それが今では二台となり、毎週金曜日に東京と茨城発、土曜日作業、日曜日朝に戻る、というのを続けている。

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行った先は岩手の陸前高田だった。震災後初の岩手である。
23:30に東京を出発して、町に入ったのは8:00頃だろうか。前回の南三陸市街地と比べると、とても片付いているなという印象。建物だった部分にはほぼ、コンクリートの基礎だけが残り、瓦礫などは一か所に積み上げられて、いたるところで重機が動いている。
しかし積み上げられている瓦礫の高さが半端ない。ビル3階分など平気であるのではないだろうか。

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ボランティアセンターで団体で手続きして、今日の作業は気仙町の瓦礫撤去になった。田畑みたいな地形なのだが、人が生活されていた場所でいたるところに散乱している自然物以外のものを片付けるという作業。
水路に入った瓦、砕け散った基礎、トタンの屋根やお茶碗に鍋。この家のモノだけではないのだろうけど、いたるところからあらゆるものが出てくる出てくる。
実際に作業をした時間は午前2時間、午後2時間。移動時間と比べるとあまりにも少ない。ただ、40人もの人間が集まると機動力はすごくある。
本当にたくさんの瓦礫が集まった。

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正直、この作業が今後どのように活きていくのかは今はわからない。
この土地がどのように活用されるかによるだろうし、ここに住んでいた人が、この状態を見て満足してくれるのか、はたまた住んでいた人はもういないのか、わからないからだ。もしかしたら重機でガツンと土を盛ってしまった方が早いのかもしれない。

ただ、今日ここにいた皆にとって、この場所で作業をしている行為が無駄ではないよなと思う。自己中心的な考え方かもしれないけれど。
本当にいろいろな想いの人がいる。それだけはたくさん感じた。感じることができて、本当に良かったと思う。

大船渡に親戚がいたという少年が参加していて、小学生なのにすごくがんばって働いていた。夜に話すとその親戚は津波にて亡くなってしまったという。「津波で死んじゃった」とぽろっと普通に言うのだけど、こう言えるようになるまで、普通じゃない時があったのだろうなあと、勝手に想像してしまう。

あれから、8ヶ月。8ヶ月もたって、まだボランティアの手を使っての瓦礫撤去なのかと思うと、先の長い行程に住民の方は途方に暮れてしまうよなと思う。今日作業したところの上の田んぼはこのような ↓ 状況だった。まだ車が埋まっているんだよ。

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作業を終えた後は、気仙沼に行ってお風呂に入って、プレオープンしたばかりの復興屋台市場というところに行った。

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餃子とビールを飲んだのだが、店のおばさんはずっと仮設にいたらしく、「はたらくっていいなあ、体を動かすのっていいなあ」としみじみと言っていた。

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気仙沼の港では、まだいろいろなものが海の中に沈んでいた。

再びバスは東京へ。日曜の朝4:30、東京駅へと着く。
終電を逃したのか、はたまた今まで飲み続けていたのか、だれもがぐったりと寝ている始発の電車に乗って家路に着いた。それは東北とはかけ離れた、日常の平和な光景だった。

また行こうと思う。
今回東北に行く機会を作ってくれた、このバスを企画運営している人々に感謝したい。

地震メモ Day 260

先週末、久しぶりに東北へと向かった。震災から250日以上、実に8ヶ月が経過していた。
最後にボランティアに行ったのは6月。ずいぶんと間が空いてしまった。いろいろな事情があったのだが、ほぼ4日夜に渡って家を空けるスタイルのボランティアが難しかったというのが一番かも知れない。
今回は2泊3日、それも車中に二泊という強行プランだった。

東北の人のために何かしたい、役に立ちたい、というボランティア本来の目的とは違って、今回は完全に自己満足のための東北行きだったと思う。すべてを変えてしまったあの津波を過去のものとして、何も考えずに忘れて過ごすのが嫌だった。今もなお、苦しい思いをしている人たちがきっといる。

俺、忘れていないよ。ちゃんと覚えているよと、自分自身に言い聞かせたかったのだと思う。

糸井さんが、ほぼ日でこんなことを言っていた。

「震災以後、いろんなひとたちに話を聞くと、
どこの被災地のひとたちも、
「忘れられてしまう」ということを
いちばん怖がっていると感じました。
そして、被災地以外のひとたちは
「忘れてしまう」ということを
ものすごく恐れているんです。」

そうなのだ。あの出来事を忘れて過ごしてしまうことを、きっと恐れたのだと思う。

バスは日比谷公園を出発して、深夜の東北道を北へ北へと走った。

地震メモ DAY115 いわきへ

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ずーっと待っていた自社の震災関係の支援物資がようやく届き、それを届けに福島県のいわきに行った。
常磐道は正常に繋がっていたが、道は所々バンピー。いわきについてからの国道はけっこうひどかった。かなり波打っている。これでも治したということだが、1ヶ月以上前になるだろうか、あの余震はひどかったもんな。

4団体に届けることができたのだけど、やはり現地の人の言葉はニュースや新聞の伝えるものと全く違う。ここでも百聞は一見にしかず、とつくづく思った。
いわき市自体が神奈川県の半分の面積という広大な場所なので、もちろん場所によって被害の差はかなりある。海岸線では津波にやられ、400名がなくなり、北端は原発から30kim圏内なのでいまでも避難地域。南部は比較的ダメージは少ないが、それでも場所によっては断層やらなんやらで、家が傾いたり瓦が落ちたり、被害は広範囲かつ、種類が異なる。

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常磐地区や小名浜の方に話を伺った。
原発が一回目に爆発したときは、風が南に向かっていなかったので、放射能物質はほとんどやってこなかったという。ただ、二回目の爆発の時は風が南に向いていたので、東京にも向かい、ここいわき市にも多数の放射能物質が降った。ヨウ素が多いのか、当時は20マイクロシーベルトあったというのだが、現在では落ち着いて、僕が持っていったガイガーカウンターでは最大0.2マイクロ、大体は0.12〜0.15くらいと決して高くはない。風向きにもよるのだと思うけど、ここいわき市に関しては結構風評被害というのはあるのだなあと思ってしまった。

なので、当時はかなりの子どもや妊婦さんなどが避難していて、子どもたちも室内から出られない状態だったらしいのだが、現在は結構な人が戻って来ていて、子どもたちも外で遊べているらしい。ちょうど小学生の下校時間と重なったのだが、低学年のこはけっこうマスクをしているのを目にした。
海岸線にも行ったが、場所によっては津波に被害も確かにひどい。だが宮城のように壊滅というよりは場所によってムラがある感じだ。なので、ここでは津波に加えて、余震と放射能からの被害がものすごいのだなあと感じた。

実は嫁さんのおばあさんやおばさんの家がこのいわきの小名浜にあって、少しだけ寄らしてもらったのだが、余震の影響がかなりひどい。瓦はかなり落ち、ドアはヒシャげ、壁にはヒビが入ってしまっていた。「天災だからしかたねえ」って91歳になるばあさんは言っていたけど、ほんと大変だなあと心から思った。

どう結べばいいのかわからないのだけど、終止ガイガーカウンターで計測した結果だけはプラスだったと思う。東京とそこまで変わらないということ。なので、近々ひ孫を見せにまた来ようと思う。

地震メモ あれから3ヶ月

あの悪夢のような地震からちょうど3ヶ月となる10日の夜。友人8名車2台で宮城に向かった。3回目のボランティアで、ボクともう2人の友人以外の5名は初の宮城入りだ。

思い返せば、最初に行ったのは地震発生から16日目で、シンヤと二人だった。
→ http://www.tabibum.com/blog/?p=1858

その後41日目に今度は4名で向かった。
→ http://www.tabibum.com/blog/?p=1898

3回目の今回は、アメリカに出張したりでバタバタがあり、あの日から3ヶ月目の久しぶりの被災地入りとなった。
声をかけたらその友達もということで8人も集まってくれて、なんだかとてもうれしい。震災がみんなの中でまだ風化せずに、それぞれがなんとか助けたいって思い続けているんだと思う。
現実として週末メインでしか行けないから、いつもその短さに後ろめたくなるんだけど、8人が2日間働けば1人の16日分に当然なるわけで、みんなの気持ちがとても心地良い、スタートとなった。

朝4時には河北に着いていたので、そこから今回のボランティアの場所となる歌津までは海岸沿いを走って向かうことにした。海岸線はどこもダメージを受けていた。そのあまりの距離の長さや広大さに、みんな愕然としたと思う。

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志津川の街全てが飲み込まれた光景があまりに生々しい。
瓦礫はまとめられ、撤去されてきているものの、2ヶ月以上前とそこまで光景が変わるわけではない。途方も無い範囲の広さにやっぱり声を失ってしまう。いったいぜんたいどこからやっていけばいいのだ、と。それでも地道に片付けていくしか道はないのだろうけれど。

晴れると無数のホコリ、そしてハエがたくさんわいていた。来るべき夏を思うと、これまたどうしたらいいんだろうと思ってしまう。

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歌津の駅もひどかった。まさか、この高さまで波が来るとは思っていなかったのでは・・・
実は歌津は、震災から2週間後に荷物を届けに来た場所だった。徐々に徐々に、瓦礫は片付いてはいるものの、時間は止まっているかのようにも思える。それが歌津の街自体の印象だった。

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WFP、ワールドフードプログラム。海外でこれを見たのは紛争地帯だった。そこはコンゴとルワンダの国境で難民が逃げて来ている場所にたっていた。まさかこの国連のテントを日本で見る日がくることになろうとは。

日本のそれは、たくさんの水や食料が中に入っていて、現在はボランティアさんが作業場としても活用していた。

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今回もRQ市民災害救援センターでの活動。
歌津の拠点は、テント泊、ソーラー充電、水は5km先から汲んでくる、というアウトドア仕様なので、自立できるたくましいボランティアが多い。

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初日の活動は、僕らは避難所となっている歌津中の整理整頓、掃除。
僕らは、と言ったのは、希望が尊重されみんなで譲りあったりで役割を決めるのだが、我々のグループは土曜も日曜も3つに別れたのだ。なんかやりたいことが別々、そしてそこにこだわらない、つるまないのがいいチームだなあと我ながら思ってしまった。

一時期800人いたという避難所は、徐々に被災者が仮設に移っていき、60世帯くらいが残っているだけとのこと。仮設に当選した人 / 落ちた人、贅沢な家のような仮設 / プレハブみたいなシンプルの物、希望の場所 / そうでない場所、といろいろとこれから心理的な不公平感というのが出てくるのだろう。
我々ボランティアの活動も、多様化しつつニーズが変わっていっているのだろうなと強く感じた。

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一緒に行ったジュンちゃんとフミちゃんは、上のテントでみんなが集めて来た写真を一枚一枚洗浄して、思い出を返すというプロジェクトをお手伝い。

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二日目は、ボクと山やんは漁師さんのお手伝い。これからわかめの漁が始まるので、マグロ漁のロープを三つに分けているところ。ぶっ通しの力仕事だったからいい運動になった。休憩時間に、全部流されちゃったよー、と一人の漁師さんが比較的普通に発言されていたのが印象深かった。徐々にではあるが、前に進める人は前に進もうとしているのだなあと思った。もちろん、そんな人ばかりではないし、それぞれのペースでいいと思うけど。

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前回2回は、帰って来てからこちらが沈んでしまうほど、現実とかけ離れすぎた世界だったけど、今回は比較的ポジティブにいろいろなものを捉えることができたと思う。ただ、まだ人は足りていないのは確実で、支援の輪がこれからも広がっていくといいなあと思った。

地震メモ Day 41 再び宮城へ

道路はえらく波打っていた。前回と違うのは、福島の道路が波打っていたこと。最近の「福島浜通り」「福島中通り」をまるで集団リンチのようにたたく地震はひどいもんね。その影響が東北道にも顕著に出ていた。

金曜日の夜に出て、土曜日の早朝に着く。またしてもたった二日の宮城県でのボランティア。あれからもう一ヶ月以上がたつのに、景色は相変わらずシュールだった。
流された巨大な鉄骨の橋、積み上がったがれきの山。傾いた信号に、くしゃっと丸められた自動車たち。

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3週間前に比べて、明らかに瓦礫は片付けられ、たくさんの支援物資が入り、燃料も行き届き人の行き来もたくさんあるけど、ここはそう簡単には変わらないのだなと思った。

丸二日間。ただただ体を動かした。
住民の方からリクエストのあった家や学校に赴き、藁が混じった重たい泥をひたすらかき出す作業。海岸線からかなり離れている地区だったが、水は地面より2m以上に達している。一ヶ月以上たった今でも、塩水で湿った土が至る所にあるのだ。手はいくらあっても足りない様子。

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田んぼには無数の足跡があったのだが、それは自衛隊や消防が行方不明者を探した跡だという。
この地区では不幸なことに多くの子どもたちが亡くなったという。

作業を終えて宿泊地に戻ると、川縁で天を一心に見つめ佇んでいるお母さんがいた。子どもを亡くされたのだろうかと、こちらは勝手な想像をして、勝手に悲しくなった。彼らの奥底まで入ることはもちろんできないのだけれども、途方もなく深い悲しみを感じえない。自分だったら起き上がって前を向ける日が果たしてくるのだろうか。

どこまでも深く厚く悲しいのだけれども、励まされる一面もあった。

夜にボランティア同士の自己紹介があり、20名くらいの人たちがそれぞれの思いを語った。
東北出身だから、いてもたってもいられなくてという大学生の女性。
関東出身だけど、東北出身の友達もいるし、なにかしたかったという女の子。
親戚が津波でなくなったので、自分がいって役に立たねばとのおじいさん。
内モンゴルで日本からたくさんの植林をしてもらったから、今度は自分が恩返し、とモンゴル人の学生。
週末だけだけど、毎週ずっと来ると熱意を語る、決して近くない300km離れた場所にすむ新潟の人。
文教大学の学生は、一週間の入れ替わりで6、7名の生徒が来ていて、もう4次隊と言っていたと思う。夜行バスで来て、その旅費や寝袋やカッパなどの装備はすべて教員の方の寄付でなりたっているという。
とにかく、たくさんの前向きの善意でここは溢れていた。だからちょっと心が震えた。やっぱり日本は捨てたものじゃないよ、と。若者だってすごいよ、と。

まだまだ深い悲しみにある現地。それは消して消えることはないと思う。
ただ、日常を失わずにすんだ我々ができることは、きっとたくさんあるのだと思う。

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写真はこちらから →Flickr

地震メモ 1 Month 情報過多な世の中で

あの日から今日でちょうど一ヶ月。
死者不明者は27,000人を越えた。もしかしたら死者は100名いってしまうのでは、と思っていたあの日の自分が懐かしい。不謹慎ながらも、ちょっとワクワクしながら気分が高揚して一人で4時間歩いて帰ってきたことも懐かしい。あまりにも壮絶な出来事だった。なんかいろいろなことが根本から変えられてしまって、決して過去には戻れない。
改めて思うのは、一寸先はわからないのだということ。だから昔からそう思って生きてきたつもりだけど、悔いのないように生きたいと改めて思う。

今日は余震がかなりあって、ひとりぼっちのオフィスはかなり孤独だった(みんな海外出張に行ってしまった)。基本びびりだから、あれから揺れに敏感で、日々体が揺れているよ。

東日本大震災と比べられるのが、阪神大震災や911くらいしか自分の時間軸には見当たらないのだけれど、あのときと明らかに違うのは情報量の多さだと思う。ひとえにインターネットだ。ツイッター、フェイスブック、ブログ、ウェブ、情報が溢れいてる。
たとえば被災地にしても、ある一定の情報がタイムリーに拡散される。たとえばボランティア一つをとってみても「がんばれって言うな」とか、「ボランティアは迷惑だ」とか、「ボランティアに行くせいで地元のコミュニティーが破壊されてしまったのでは」とか。でも一方で、誰もが被災地を見た方がいいとか、ボランティアは不足しているとかいう情報もあるわけで。
いろいろな人がいろいろな思惑を持ってして、意見を述べそれがRT的に拡散する。RTされればされるほど、支持をされているような錯覚も起こってしまうけど、別にどうだっていいじゃんと内心思うのだよ。その文章を「読め」とか強制するような輩はさておき、みんな一方的に情報を発信して、一方的に受信しているわけであり、読む権利もあり、読まない権利もあるわけだから、いろいろな人がいて様々な意見を述べるのはある意味当然のことであるわけで。もちろん公人やメディアではなく個人の発言に限ったことだけど。

何が言いたいかと言うと、あまり外野に惑わされずに、自分の意見をしっかりともって行動すればいいんだと思う。正解なんてどこにもない、そんなのネットに落ちてない、全国民が評論家になったかのごとく発言し発信するけど、その検証は歴史に任せればいいし、人と人との繋がりがあってこその人間ですから、バーチャルではなくリアルな行動を、自分を偽らないでしていけばいいのだと思う。
何にせよ、行動すれば失敗でもいいから後に繋がる何かが自分の中に生まれると思う。一人ひとりがそれでいいのだと思う。

なんだか地震で涙腺がもろくなってしまったのか、ぐっと来てしまうことが日常的に多々あり。
きっとまたNHKに消されてしまうけど、なんど見ても、何に対してとかではなく、ただただ、がんばろうと思う映像。

それと「これがRockか!」と思った瞬間。

zutto uso datta / kazuyoshi saito from likeasaito on Vimeo.

歴史はこうやって紡がれていくのだよね。時間にただただ従順にさ。

地震メモ Day 25

暖かくなったので計画停電はほとんど終わり、街は何事もなかったかのように普通に戻ろうとしている。お店の閉店時間も遅くなってきたし、止まっていたエスカレーターも動き始めた。駅構内の照明は多少暗いままだし、店舗の照明もまだ100%ではないけれど、また元に戻ってしまうのだろうか。

でも僕らはあの地震の前には決して戻れないと思う。毎日入ってくる原発のニュースにただただ絶望を感じる。ひどい、と頭を下げて落ち込んでいる状況が、毎日ますますひどくなる。耳を塞ぎたくなる、情報をシャットダウンしたくなるほどだ。

昨日、低レベル(といっても基準値の100倍)の水をジャバジャバと海へと流し始めた。海の生物たちに申し訳なくて、本当に涙が出そうになった。俺たちの利便を追求しすぎた生活のせいで本当にごめん、と。彼らにはまったく罪がないのに。
海で通常の一億倍のヨウ素が検出されたとのニュースを夜に聞いた。単位があまりにも非現実すぎて、思考回路が麻痺してしまう。

東電の人も現場の人も確かにがんばってくれているし、それは否定しない。ただ、原発だけは絶対的に否定していきたいと思う。よく原発を否定すると二言目に言われるのが「じゃあ電気使わないの?」という一言。そこは論点ではないと思うんだ。俺らに原発以外の電気を選ぶ権利をくれよ、と心から思う。
コストがと言うやつは、教えてくれ。原発が結果的にどれだけ高いコストを払うことになるのかと。福島原発から数十キロの範囲は、今後数十年、人間の活動ができなくなってしまうと思う。そのコストはいったいいくらになるのだ。海や農業、自然への保証はどれだけのものになるのか。お金では解決できないし置き換えられないが果たしてこれが安い電力だったのか?

日本は損なわれてしまった・・・・
悲しくて絶望しか感じられないほど損なわれてしまった。
絶望の次は怒りしか沸いてこない。