地震メモ Day22 南三陸町へ

ものすごい眠気にやられた今週だった。息子よ、寝てくれ・・・
あれから今日でちょうど3週間。日常と非日常(被災地)の頭の切り替えが上手くできない今日この頃。仕事にまったく集中できない。
少し前の話となってしまったけど、先週末ボランティアをしに行ってきた、南三陸町の様子をもう少しまとめてみる。

25日(金)友人のShinyaと夜中に三鷹を出発。那須高原で40分ほど並び給油をして、一路北へ。途中から雪景色に変わった。なんだかやたら車がバウンスするのだけれど、地震の影響で道路が歪んでしまっていることにあとで気がついた。
週末なので、自家用車が多い。と同時に、やたらと電柱を積んだ車を目にする。被災地はすでに復旧へと向かっているのだ。なんだかその無数の電柱運搬車に勝手に勇気づけられる。

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築館ICで降りる。ガソリンスタンド前の異常な渋滞と、コンビニから物がないのを除けば、登米市は比較的普通だった。もちろん我々の目に見えない被害はたくさんあるのだろうけど、今回の一番の猛威は津波なのだと改めて思う。
登米の廃校となっている鱒淵小学校へと向かう。ここがモンベルとエコツーリズムセンターが前身となっているRQ市民災害救援センターの東北本部となっている。昔の同僚のガッチャンや、アドベンチャー仲間のケイちゃんと会う。それ以外にもくりこま高原自然学校や徳島トエックの元スタッフ、ラフティング系の人々など、知り合いの知り合い的な人やアウトドア関係の人々がやけに多い。
でもそれも納得だ。夜は氷点下にもなるテント暮らし、道はまるでアドベンチャーレースのナビゲーション、被災地は携帯も通じないし、電気もない。こんな初動期だからこそ、肉体的にも精神的にも強いアウトドア系が役にたつ。よかったね、我々。

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体育館の半分は物資があって、仕分け班が一日中物資を仕分けている。10:00には恒例の荷物の搬入、2tトラックが天童のモンベルから2台やってきた。ここには昨日できたという総務部があり、車の配車ルーム兼情報収集室があり、組織系統がしっかりしている。この拠点を構えてたったの1週間とは思えないほどだ。
でも、どこかのプロフェッショナル集団がいるわけではなく、ほぼ見知らぬ個が集まったボランティアの塊のだけなのだ。本当にすごい事だと思う。

現在の主な活動は、物資の配達。
体育館に分けられた資材をひたすら被災者のもとへと運ぶ。主に避難所ではなく、孤立している人たちがターゲットだ。
日々現場の状況が変わるし、場所によっても状態が異なると思うが、我々が登米市から通っている南三陸町はまだ電気がなく、ガソリンもない、場所によっては水もガスもない。道はかなり自衛隊によって繋げられてきたが、運良く無事だった被災者で自宅にいる人には物資が行き渡っておらず、孤立しているケースも多々あるのだ。ガソリンがなかったり、車が流されてしまったりいろいろな状況が混在している。

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この週末は15台くらいの車が登米から現地へと荷物を二往復運んで、ニーズを聞いて、新たな場所を開拓して、ということを繰り返していた。
震災から2週間たった今でも、毛布一枚しか持っていないような孤立した被災者を見つけることもあるというから、驚きだ。とにかく被災の範囲が広い。広すぎて行政や自衛隊などではカバーできない。こうした民間の組織も十分にやることがたくさんあると感じられた。

現場はあまりにも壮絶だった。自分のチープな言葉ではとてもじゃないが上手に表すことができない。まるで海外のよう、そして戦争というものがあったとしたらこのような場所なのだろうとも思った。しかもこれがこの場所だけならまだしも、数百キロにわたり続いているのだから驚愕する。唖然として涙が出そうになる。

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我々の前日に現場に入っていた「あそんで学ぶ環境と科学倶楽部」の中林さんと行動を共にさせて頂く。昨日ニーズを聞いてきたという孤立した10世帯ほどが暮らす地域に、靴やランタン、水や食料を届けた。カップラーメンは食べ飽きたといい、レトルト食品でさえかなり喜んでくれた。下着や服は不足気味、カイロや消耗品系もお渡しした。
その後も数件周り、資材が切れたので明日への聞き取りをした。

夜の21:00に東京から2t車の資材がやってきた。みんな疲れているだろうに、荷物を運ぶだけではなく、資材班は仕分けを始めた。被災地を見て、心底なんとかしよう、なんとかしたい、という気持ちでいっぱいなのだ。
我々もハイテンションになっているのだ。

もしかしたらおせっかいかも知れない。ただの自己満足かもしれない。
でもたぶん、じっとしてはいられない、なんでもいいからやりたい、走りながら考える、そんな人々がここには60人もいて、その連帯感に勝手にも心が満たされる気がした。

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翌日も運搬。昨日ニーズを聞いた場所に荷物を運ぶ。高台にいたので無事だったという人々のもとへ。無事な人は被災者としてみなされず、孤立気味になってしまうということもあるそうだ。家がない人が優先されるからだ。それは優先順位として正しいのだけれども、彼らもガソリンがなくてどこかに行くのもままならないし、食材なども不足していることには変わりはない。そして周囲の人がかなり亡くなってしまっているという心の傷が多々あると思う。

大丈夫だ、と現地の多くの人が言う。笑って振舞ってくれる。それを見て、我々は東北の人は強いな、と思ってしまった。けれど、どこまでが本心なのか分からないなと後でふと思った。部外者である我々の前で、気丈に振舞っているだけかもしれない。僕だってそうするかもしれない。本当は泣きたくて、つらくて、先も見えなくて。でも強く振舞ってくれる彼らにただただ言葉を失ってしまう。

27日(日)夕方に帰路に着く。今回はたった二日しかいられなかった。行かないよりは役に立てたと思うのだけれど、ここに一ヶ月、半年や一年の覚悟で仕事をほおり投げて来ている有志の仲間に比べたら、本当に些細な期間で申し訳ないなと思う。でも足を運んでよかったと思う。日本中のみんなが、この状況を実体験として感じる価値があると強く思った。だってこれはとにかく長期戦になるのだから。
なんだかまとまりの悪い、長いだけのレポートとなってしまったが、継続だけはしていきたいと思う。

現地の写真はこちらから 
Creative Commonsの設定をしているので、自由に使用してください。

One Reply to “地震メモ Day22 南三陸町へ”

  1. はじめまして、非営利の環境イベントでの映像に震災で渋滞しているガソリンスタンドの写真が必要なのですが、ブログに使用されている写真をお借りする(2次使用)事は可能でしょうか?宜しくお願い申し上げます。

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