後藤さんを想う

筆が遅々として進まず。なんだか悶々として、書いた文章を放置しつつも、ただ書かないと前に進めないような。なので、整理しきれていないけれど、書ききりたいと思う。

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こんな表現も変な話だがイスラム教の人々が大好きだった。
日本とは異なりすぎる不思議ワールドをもっと知りたくて、多くのイスラム国家を旅した。シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、トルコ、イラン、パキスタン、エジプト、スーダン、モロッコ、モーリタニア、そしてナイジェリアやニジェールなどのブラックアフリカの国々。特段中東は親切すぎる人々の国だった。

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旅のスタンスにはポリシーを持っていて、危険過ぎる国には行かないようにしている。だからイラクに行ったことはないし、猛烈に行きたかったコンゴにも行けていない。いつか平和になった時にそれらの国に入れるだろうと思ってきた。でも、かつて行った国々が、今は旅行に適さない国にこの時代になるとは、想像もできなかった。かつて旅ができていたパキスタンもヨルダンも、シリア、ナイジェリアやニジェールも今では旅行が困難な国になってしまったと思う。自分の基準では行かない、行けない国に分類される。そして行きたくても行けていないイラク、コンゴ、リビアもイエメンもいけない国のままだ。

さて、急激に台頭したイスラム国という存在が世間を脅かし、自分の心も激しく揺さぶり、心のなかは冷静に考えられていない状態だけれども、記憶だけはしておきたいと思う。

21世紀にもなって、人間はばからしくも、人間どおしで争い続ける愚かな行為が続くのだなと、あまりにも残念にも思う。

でもそれは我々が21世紀に生きているだけで、21世紀にまだなっていない国々があるから、仕方ないのかもしれない。
持論では世界各国や場所によって時間軸や時代が違うとつねに思っている。それはもちろん均一化の方向に向かっているけど、かつて日本が鎖国していた時はすでに何世紀も進んでいた西洋から見たらとても時代遅れな国だったのだと思う。たとえば、ギリシャは紀元前から哲学的な人がいたけど、ブラジルのジャングルの奥地では21世紀でも着の身着のまま、自給自足生活の人がいる。これは明らかに時代が違う。同じ時間の進み方とは捉えられない。だからこそ旅は面白くて、それこそが旅の醍醐味であり、そして世界が均一化へと向かえば向かうほどつまらなくなってくるのだけれど。

イスラム国をモンスターだといい、理解できないという。その通りだ。でも、それは時間軸や世代が異なっているから仕方なくもある。やがて均一化へと必然と向かう。彼らの統治は長い目で見れば続くはずがない。持続不可能である。なぜなら、かつて恐怖や虐待で持続できた国がこれまでなかったのは歴史が証明しているから。
我々もかつてはイスラム国のような今では理解出来ない行為を続けてきたはずだ。ヨーロッパでは魔女狩りもあったし、ナチスもいた。十字軍だって虐殺をしただろうし、日本の戦国時代だってきっとそうだ。そして、近年で言うと日本人は南京大虐殺や首刈り競走などをしていた。今では到底理解できなく、実施できない残虐極まりない行為である。なので、彼らのことは理解もできなければ容認もできないし怒りも覚えるが、時間軸が違うだけなので、やがて時代とともに淘汰されると思う。

目には目を、歯には歯をのイスラムの教えを貫くように、もはや負の連鎖は止まらず、泥沼の様相を呈している。911から続くこの連鎖はしばらく止まらないであと数十年世界は安定しないかもしれない。インターネットというものが生まれ世界がつながり、安定化がもたらされるかと思ったら、むしろそれが逆の不安定性をもたらすツールとなってしまったのは残念である。

なので、我々は悲劇の終わりを待ち続けるしかないようにも思える。ただ、そうは言ってもやるせなさすぎる、のが今回の本音だ。

後藤さんが救出される、というニュースが誤報だったので、殺害されたというニュースも誤報であって欲しいと、丸一日テレビや携帯を避けていたけれど、本当に残念な結果で、言葉も出なく気持ちの整理もできなかった。

どんな気持ちだったんだろうか。相当な危険や死を予想して向かったと思われるので、全くもって浮かばれないだろうけれど、覚悟はしていたのかな、と思う。 それでも現地の様子を生の声で伝えて欲しかったし、伝えたかっただろうに、さぞかし無念だと思う。タラレバで語ることはできないけれど、手順さえ間違えなければ救出できる可能性も合ったはずだ。それでは、彼は救出できなかった我々を恨むだろうか。否、自己責任というのはそういうものだから、助けられなかった我々のことを責めたりはしないだろう。
僕はその状況を自然の中に入った時と同じように考え、想像するしかない。自己責任で自然に入る。そこにはもちろんリスクがある。何かあったら助けてほしい。そのための道具も持っている。ただ、そうはいっても無理な状況なんて当然のようにある。それを理解しているつもりであるし、その覚悟で自然に入っている。リスクがあっても自然に入るのは、無事を楽観的に信じているということプラス、時としてそこまでのリスクを背負ってでも、背負うからこそ観れる景色や、体験や、極上のものがそこにあるからならない。
だから、後藤さんの状況を考え、勝手に想像するに、彼は彼の責任で、ものすごいリスクを背負ってでも伝えたかった、命をかけたものがあったのだと思う。そしてそれは本当に命を共にしてしまった。

そのように彼が命をかけてでも、伝えたかったこと、成し遂げたかったものを、お茶の間の安全圏にある我々が、やれ無謀だとか、結局は他者がリスクや負担を覆うのだから勝手な自己責任だと言う権利がどこにあるのだろうか。
そんな否定的な意見もこのネット世界だから多数目にしたのは残念だったけれど、良識のある方々やジャーナリスト、アウトドアの仲間は「自己責任」の意味を履き違えずに、危険な論調に警笛を鳴らしてくれたのは良かったことの一つだった。

感情的だと思うけれど、後藤さんのようなジャーナリストたちが世界の見えない部分を我々に伝えてくれているのだと言いたい。
命を掛けてまで何かを伝えたいと思う彼らがいるから、今の世界が少しはマシになっていると言いたい。
どんな人か他の人の評価でしかわからないけれど、あんなにも多くの人々が、国の垣根を越え、彼の死を悲しみ、生前の彼の善行と尊さを口にした。その善意の世の中を信じていきたいと思う。

彼が存在したことによって、中東やこの世界は少しは良い世界になったに違いないと思う。
生前も、その死後も、この事件に影響され、この事件がきっかけでいろいろ気付き、知り、学び、良い連鎖が生まれることを願う。きっと犬死ではなく、死してなお生きてくれると信じたい。

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「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」
胸に突き刺さる彼の言葉を覚えておきたい。後藤さんにご冥福あれ。

何事も経験か?

何事も経験するのがいい。しないよりはよっぽどね。と常々思うんだけれど、ただ、それが必須の経験であるものかはちょっとわからない。とも思う。

最近仕事でファッション誌の撮影の立ち会い、というのが増えてきた。いわゆる、これまで自分がまったく関わりがなかった世界。あまりにも有名なファッション誌であり、もう20位年下のモデルさんの撮影を見て、こうしてほしいとクライアント的にリクエストを出す。ただ、えらくはないし、その道のプロではないので基本的に彼らを信頼し、彼らのいいと思うものを作って欲しいし、最低限のサポートをするだけなのだが。

いわゆる、お金がなかったアウトドア業界と違い、節約することが多かった制作会社とも違い、すべてに置いて人が贅沢だなーと常々思う。それが必要かどうかはさておき、経験することがなかったことだなとシミジミ思う。今日の撮影は11名。内訳は、クライアント(自分)、代理店の営業さん、雑誌の営業さん(この3人は自分がお任せしますと言ったら必要がなくなって撮影にも同行しない、おかしな話だ)、編集者、ライター、カメラマン、カメラマンのアシスタント、証明、スタジオの人、モデル、スタイリスト、ヘアメイク。こんな人員で2ページのページを贅沢に作るのだから、悪いものができるはずがない。
拍子抜けしつつも、経験は貴重だと思うように努め。最初の疑問のループへと入るわけだ。