あの時の東北へ -1-

11月の終わりに、東北へと向かった。その時のことを書こう書こうと思いつつ、最近のブログ離れから筆が全く進まない。もちろん、行った後にどう心を整理しよう、と思っていることもあって書かなかったというのもある。でも自分への教訓としては、常に文章は書いていくべきだと思う。文を書いて、深く考えていくべきなのだと思う。なのでこれを機にもう少しちゃんと更新しようと思う、自身の日記的なブログとして。

初日は嫁さんのひいおばあさんが住む福島県いわき市へと向かった。常磐道はもちろん途中から通行止めとなる。これは当然原発がその先にあるからだ。1年以上前に訪れた時よりも、ずいぶんと道路はフラットになったけれども、それでも福島が近づくと、波打つ箇所もある。余震も原発も、ここでは収束していないのだと、本当に思う。

おばあさんと会った後、おじさんが被災した海岸線をじっくりと案内してくれた。
南三陸や気仙沼の規模とは全く異なると思うけれども、ここでも家が丸々流されてしまった地区がいくつかある。そしてその場所にはコンクリートの断面が残るだけで、今も復元の兆しはない。津波や地震の被害よりも、やはり原発のインパクトの方が、今も続いているという意味では根強いのではないかと思った。

たくさんの仮設住宅。それらは主に原発により家を奪われた人たち。保証金がある程度でて、日中働かなくて良い人も多いみたいなのだけれども、元からいわきに住んでいる人の中には「あの人たち働かないでも生きていける」的な批判的な考えを持っている人もいると思う。だからそこに意識の壁が生まれつつあるわけで。同じ福島なのに、悲しいなと思う。その仮設にいる人たちだって、一番いいのは仮設にいないことに違いないから。

海にはサーファーがいた。それがどの程度「戻っている」のか、普段より少ないのか多いのかわからないけれど、でもとにかくそこにはサーファーがいた。観光魚市場はかなりの活気だった。
ある意味、ここには関東に暮らす自分との意識のギャップがあった。放射能、大丈夫なんだろうか、と。

現実を見た上での、影響がないという判断なのか。現実を直視するのを止めたのか。思考しなくなったのか。あきらめたのか。それとも共存していこうとしているのか。ただ、すべての海産物の影響はゼロとは言えない事実やデータはあるわけで。遠くはなれた僕にはきっとわからないことだろうし、口を挟むことではないのかもしれない。

ガイガーカウンターを持参して訪れた一回目。親に止められながらも、ムスコをばあさんに見せにきた2回目。そして今回の3回目のいわき。自分のマインドも、周囲を取り巻く環境も毎回異なるけれども、毎回来て良かったなと心から思う。

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