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さらなる試練 (イラン)
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ドゥーバヤジットを出発してトルコ側の国境まで走ると、そこには数え切れないほどのトラックが並んでいた。ナンバープレートを見ると、どうやらそれはイランからやってきたようだった。どの車もおんぼろのガソリンタンカー車だった。イランからガソリンを輸入しているのだ。イランはガソリンの国、そして中東なんだとしみじみと感じる。
 国境はトルコ−ギリシャ間とはまた違うものだった。
 早速、トルコ側の出国手続きをする建物の中に自転車を担いで入る。そこで出国印を押され、同じ建物の中を進み、ドアを空けると、そこはもうイランの敷地らしかった。なぜなら壁一面にホメイニ氏の肖像画が描かれていからだ。つまりこの出入国管理所は両国の国境を跨いで作られているのだ。この部屋で入国手続きをし、パスポートにスタンプが押された。
 ここでは荷物検査も受けなければいけないらしい。四人検査官の前には長蛇の列ができていた。トルコ人なんて一人もおらず、ほとんどがイラン人の女性だった。彼女たちの誰もが、黒い頭巾で頭を覆っていた。
「もう違う国なんだなー」まだ入国してから十分と経ってないのに、ぼくはまざまざと感じてしまった。黒頭巾の女性達はなんだか不気味だった。魔女とはこの国から来たんじゃないだろうか。
 誰もが異常に大きい荷物を持っていたからかもしれないが、一人一人の荷物検査にえらく時間がかかっていた。反対にトルコ側に入国する人は、ほとんどノーチェックと言ってもよかった。これが同じイスラム国でも、戒律に厳しいイランと、緩やかなトルコとの違いなのだろう。

 一時間程待っただろうか。結局ぼくは自転車なので珍しがられ、荷物は調べられなかった。
 イラン側の国境にもガソリンタンカーが行列をつくっていた。砂利道の坂を下り国境の門を出ると、男が数人群がってきた。
「チェンジマネー、チェンジマネー」
 彼らは口々にそう叫んだ。ここからやっと役に立つことになる情報ノートにには、彼らのことが「チェンマネ屋」と書かれていた。まあ、いわゆる闇両替屋である。
 イランでは今だ通貨が不安定で米ドルが強いので、闇両替が存在する。銀行では1ドル3000リアルぐらいで、闇だとその約1.5倍だと聞いていた。両替は昨日の内にトルコ最後の町で済ませていたが、一応値段を聞いてみた。
「1ドル4000リアルだ」
「いい、いらない。安いよ」
「じゃあ、4500でどうだ」
 すぐさま、4500まであがってしまった。昨日ぼくは1ドル4300で両替したのだった。
「イラン側に行くとレートは4000リアルでトルコ側ならもっと高いよ、よし君には特別に4300出そう」そう言ったおやじの口車に乗ってしまったのだ。騙された、畜生。なんだかとても損した気分だ。

そしてぼくはイランを走る。
 殺風景な風景は昨日までとそう変らない。土色とでもいうべき色をした石混じりの地面が遥か遠くまで広がり、その先には高い山々が連なっている。トルコとはうって変わった、その広い空間の中にぽつりと一本の道路が続いているだけだった。道路は新しいアスファルトに覆われており、その凹凸が少ないツルツルの道路はとても走りやすかった。
 イラン最初の町、マクーへの標識が出ている。「MAKU」という文字はアルファベットとペルシャ語両方で書かれていた。しかし、距離数はペルシャ語のみだった。へんな棒と、ハートを逆さにしたような記号だった。
 読めない、なんだこれは。そういえば、トルコは西欧化政策のおかげで、文字はすべてアルファベットに変わったというが、しかしここはイランである。この国にはそんな政策は存在せず、文字もペルシャ語のままである。それは右から書き始めるアラビア文字みたいにフニャフニャした文字で、ぼくにはどう頑張っても読めないような代物だった。

 30キロも走りマクーに到着。早速情報ノートを見ながら宿を探す。
イラン最初の宿はシャワー付きの個室で250円というまずまずの安さだった。1階に受付があり、かつてはレストランもやっていたみたいだが、そこは廃れて椅子が散らかり埃を被ったままだった。2階からが客室となっており、ぼくの泊まった部屋は薄暗いが広々としており、古びた毛布が掛かったベッドが二つ真ん中においてある。シャワーとトイレは一緒になっており、汚れたタイルに囲まれた2畳ほどの個室に、排水溝が一つ、壁から無造作にシャワーノズルが突き出ているだけだった。トイレは一応西洋式であったが、イスラム国の風習に従い水で処理するためか、当然のごとく紙がなく小さな手桶が入ったバケツが一つ、ぽつんと置いてあった。

 一休みしてから外に出てみる。もう暗いせいか人影はまばらだ。外国人が珍しいのか、すれ違う人誰もが、ぼくを上から下まで舐めまわすように見つめた。小さな商店に入ってみると、小さいといっても大きい商店などもともとないのだが、そこに並ぶ商品全てがペルシャ語で明記されていた。トルコと比べるととても商品数は少ないように感じられた。文字を見てもわからないので絵で判断し明日のためにお米、卵、クッキーやスナック菓子らしきものを買った。値段表記ももちろんペルシャ文字なので、言われるがままの金額を払った。これは数字くらいは読めるようにしないといけないな。
 次に最も重要な物を探すことにした。地図である。トルコまでは精巧なヨーロパ製の地図が買えたが、果たしてこの国でそれほどの物が手にはいるだろうか。無理だろうな。
出国前の考えでは、国境には必ず地図が売っていると確信していた。しかしその日本の常識もこれらの国では通用しないことは分かりきっていた。
小さい町だったが教科書らしきものを売っている書店がいくつかあったので、それを一件ずつ回る。
「地図はありませんか、地図を扱っていますか」
 1件目では地図という言葉自体が理解されなかったが、2件目の親父はなかなか教養があるらしく、「あー」とひらめいたように叫ぶと奥から、折り畳んだ地図を取り出してきてくれた。地図そのものはヨーロッパ製と比べると、どうしても見劣りする貧相な物だったが、それにもまして「読む」ことができない。なぜなら町の名前も、その間の距離数も全てペルシャ語で書かれているのであった。
「英語の地図はないの?」
 彼は残念そうに首を振った。しかしその親父はとても親切で一緒に地図を探してくれることになった。彼に引きつられて数件の本屋を回ったが、何処も扱っているのは先ほどと同じペルシャ語の地図だった。
「ペルシャ語の勉強をするか」半ば諦めかけた瞬間、親父はペルシャ語でぼくに興奮して話しかけると、ぼくの手を引っ張ってすぐ近くの食堂へと入った。彼が食堂の従業員の若者となにやら会話を交わすと、若者は店の奥から英語で書かれた地図を引き出してきた。それは先ほどの貧相な地図の英語版だったが、ぼくには天の助けのようだった。その地図は彼がテヘランに行ったときに無料でもらった物だという。

「タダではない」
 若者は言った。
「いくら払えばいい」
「4万リアル」
 1000円!それはいくら何でも高すぎだ。宿代の4泊分、それにペルシャ語の地図の10倍じゃないか。
「もうちょっとまけてくれよ」
「じゃあ、3万5千」
 それでも900円ほどだ。彼はどんな商人よりも欲深そうだった。そしてどうやら彼には、ぼくがどれだけその地図を必要としているかわかっているみたいだ。値段よりもこいつの傲慢な態度に腹が立ってきた。もういいや、ペルシャ語を勉強して、さっきの地図を買おう。
「じゃあ、いらない」
 ぼくが怒って断ると、男は急に焦りながら、2万リアルと最初の半額まで値段を下げてきた。でもいいとぼくが断ると、彼はいつの間にか周りに集まってきた観衆に攻められる羽目になった。
「安くしてやれよー」
「おまえ高くとりすぎだぞ」
 みんなは口々にこう言っているようだった。
「わかった8000リアル」
 ついには200円にまで下がったが、ぼくはなんだかムシャクシャして、せっかく地図が手に入ったというのにちっともうれしくなかった。
幸先がいいとはいえなかった。情報も少なく言葉もまったく分からず、ガイドブックもないせいか、新しい国への期待感よりも、未知の国への不安感を感じる。

 トルコには1ヶ月以上もいたせいか毎日のペースができあがっていた。食事のメニューも言葉も徐々に覚えつつあったし、その日に成すべき事、買うもの、どこにどんな商店があり何を売っているか、自炊のメニュー、全て熟練された感覚でわかっていた。ころころと国が変わるヨーロッパと違い、同じ国に長くいるというある種の落ち着きというものを感じていたのかもしれない。
 そこで久しぶりの異国である。この、「何もわからない」という感覚に敏感に反応しすぎて、戸惑ってしまったのだ。また一から覚えていかなければいけないんだなぁ。なんだか面倒くさい気もするけどしょうがないか。

「何でこんなに店が早く閉まるんだろうな」
 ドゥーバヤジットで会った日本人と、トルコの閉店時間の早さに共感したことがある。6時にもなると、商店や、中には食堂までもが店を閉じてしまうのであった。
 ここイランもトルコと同じく早閉め王国だった。7時になるとほとんどすべての店は閉まり、通りには本当に人影がなくなった。先ほど目星をつけた飯屋を何軒か当たってみたけど、店も、その周辺も、通りもどこも真っ暗だった。路地の先には吸い込まれそうな暗闇が潜んでいたので足早に宿の方へと帰りながら、かろうじて開いていた食堂らしき場所に入った。
「何か食べるものある」
 手を口に運ぶジェスチャーをして聞いてみた。その髭を生やした気のよさそうな主人は、どうやらこっち言いたいことを分かってくれたらしく、奥から肉の固まりを持ってきてみせてくれた。それを指さし頷くと、15分後に出てきたのはライスの上に羊肉の串焼きがのっただけというシンプルな料理だった。
「チェロ、ケバブ」
 料理を指差しながら彼は言った。
「チェロ、ケバブ?」
「そうだ、チェロ、チェロ」
 彼はそう言いながらライスを指差した。どうやらライスをチェロと呼ぶらしい。
「ケバブ、ケバブ」
 次にその串刺しを指差す。この羊肉、または串焼きをケバブというのだろう。トルコと一緒だ。直訳すると串焼きライスだ、なんて単純な料理だ。あ、でも日本の牛飯みたいなものか。
 さっそく食べてみる。ライスはパサパサしていてバターがたっぷり絡められていた。ケバブはただの塩味の焼き肉、ご飯のおかずにするようなものではない。
「バターはかけないでくれー、肉にもっと味をつけてくれ」と、それを一口食べただけで、おいしかったトルコ料理が恋しくなった。しかし、この先もずっとこの料理を食べ続けることになるとはこの時は思いもしなかった。

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