何かあるんじゃないか、 また何か起こるんじゃないか。
ザヘダンを出発してパキスタンへと向かう最中、ぼくは内心ドキドキしながら自転車をこいでいた。あと百キロも走らないうちに、国境に着くだろう。しかし、本当にこの国から出られるのだろうか。ぼくにはそれが信じられなかった。いろいろありすぎた、この国では悪いことが重なりすぎた。最後の最後でとんでもないことが起こるんじゃないだろうか。
幸いなことに、今日の予感は空振りに終わり、六時間も自転車をこぐと無事国境に着いた。イランの出国もスムーズに行われた。
「やったー。イランだっしゅーつ!」
長かった、そしてデカかった。あばよーイランよ。喜びながらパキスタン側の門をくぐり、最初の町、タフタンへと入る。すぐさま、両替商やバスの運転手が群がってきた。
「どこまで行くんだ?」
近くに止まっているおんぼろバスの運転手が聞いてきた。
「クエッタだよ」
「じゃあ、ちょうどいい、このバスはクエッタ行きだ。乗っていけ、自転車はただで乗せてやる」
「いいよ、この自転車で行くから」
「自転車で?それはよしたほうがいい。クエッタまでどんなに遠いか知っているのか。ここから600キロもあるんだぞ。そんな自転車で行けるわけがないよ」
でも、ぼくはここまでずっとこれできたのだ。
「大丈夫だよ。ぼくはこれで行く」
「危ないから止めてバスに乗っていきな。クエッタまでの道は危険なんだぞ」
何が危険なのかはわからないけど、それはぼくをバスに乗せるための嘘なのだろう。危険危険と繰り返す男を尻目に、ぼくは入国管理所へと歩き出した。
パスポートにスタンプを押され、管理所の帳簿の行き先という欄に、とりあえず「クエッタ」と書き込んだ。
「クエッタまで行くのか。それならすぐそこからバスが出ているぞ。それに乗るといい」
入国管理所の係官は言った。
「うん、でも自転車で行くんだ」
「自転車?」
何言ってんだこいつは、彼はそんな顔をした。
「そこに置いてある自転車だよ」
そう言うと窓の外の自転車をちらっと眺めたが、それでもまだ不思議そうな顔をしていた。
「バスで行けばいいじゃないか。あんなので行ったら危険だよ」
またしても危険だという、一体何が危ないというんだ。それでもぼくが自転車で行くと言い張ると、彼は諦めたようであった。
「わかった、わかった。それならいい。でも必ずこうしなさい、これからクエッタまでの間の村には警察がいる。その警察に頼んで警察署に毎晩泊めてもらうんだぞ。いいな」
なんでこんな事を言うのか分からないけど、確かに何かが危険なようであった。
ここはタフタン、国境の町。
土を固めた箱のような四角い家が並ぶ。パキスタンの旗がいたるところに立てられており、頭を布で覆い、スカートと上着をくっつけたような服を着たまるで「アラビアのロレンス」に登場してきそうな、砂漠の男達が通りを歩いている。その土の箱から布のお手製の屋根を突き出している商店には、麻袋や木箱が山のように積まれ、みかんやバナナなどのフルーツ、イラン製の缶詰やお菓子がたくさん売られていた。道路は未舗装で、そのためか空気が埃っぽく感じた。
いままで国境で必ず探していた道路地図は探すまでもなかった。こんな小さな村に地図など売っているわけがない。それにしてもまいったなあ、地図なしで進まなければ行けないのか。それもクエッタまでの砂漠の道、600キロをもか。
とりあえず50ドルほど路上で両替した。ぼくの紙幣の両替レートは通常のものより少し低かった。それというのも、イランで紙幣が泥まみれになってしまい、汚れているからだと言う。銀行は閉まっていたのでトラベラーズチェックは交換しようがないが、この汚れてしまったT/Cもどこかの大都市で新品に交換した方がいいかもしれないな。
入国管理所で紹介された宿へと向かった。ツーリストホテルと呼ばれるきれいな場所で、そこで一週間ぶりに体を洗った。洗ったといっても、バケツ一杯の熱湯を支給されただけで、それを水で薄めながらゆっくりケチケチとお湯を使った。砂漠を通ってきたためか頭の隅々まで砂が入り込んでいた。
汚れを流しすっきりすると、夕食を摂りに外へと繰り出す。停電しているのか、電気が通ってないのか村は真っ暗だった。所々で発電器の音がした。クンクン犬のように匂いを嗅ぎながら食堂を探す。近くの建物から明かりが漏れていて、歩み寄るといい匂いがするので、迷わず中に入ってみる。
その、土でできた家の半分は御座のようなものが敷かれており、もう半分は厨房で、土で固められた釜の上には大きな鍋がのっていた。予想通り、そこは小さいながらも食堂だった。
厨房の脇に立っている二人の男に、何か食べるものをくれとジェスチャーすると、御座の上に座らされ、男が鍋からよそった茶色い汁を運んできた。
「アール・ゴビー」
彼はにこっと笑い、それを指差した。中にはジャガイモとグリーンピースらしき豆が入っていた。カレーだ、カレーに違いない。次に円形の平たいパンのようなものが運ばれてきた。それは「ローティー」と呼ぶらしかった。その、ローティーを素手でちぎって、カレーにつけて食べる。
カレーなんて何カ月ぶりだろう。辛い、辛い、でもなんてうまいんだろう。おいしすぎて涙が出そうになった。いや、懐かしかったのかもしれない。日本のカレーと多少味は違っても、これは紛れもなくカレーなのだ、アジアの味なのだ。
近づいてきている。ぼくは間違いなく日本へと近づいているのだ。
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