地震メモ Day 41 再び宮城へ

道路はえらく波打っていた。前回と違うのは、福島の道路が波打っていたこと。最近の「福島浜通り」「福島中通り」をまるで集団リンチのようにたたく地震はひどいもんね。その影響が東北道にも顕著に出ていた。

金曜日の夜に出て、土曜日の早朝に着く。またしてもたった二日の宮城県でのボランティア。あれからもう一ヶ月以上がたつのに、景色は相変わらずシュールだった。
流された巨大な鉄骨の橋、積み上がったがれきの山。傾いた信号に、くしゃっと丸められた自動車たち。

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3週間前に比べて、明らかに瓦礫は片付けられ、たくさんの支援物資が入り、燃料も行き届き人の行き来もたくさんあるけど、ここはそう簡単には変わらないのだなと思った。

丸二日間。ただただ体を動かした。
住民の方からリクエストのあった家や学校に赴き、藁が混じった重たい泥をひたすらかき出す作業。海岸線からかなり離れている地区だったが、水は地面より2m以上に達している。一ヶ月以上たった今でも、塩水で湿った土が至る所にあるのだ。手はいくらあっても足りない様子。

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田んぼには無数の足跡があったのだが、それは自衛隊や消防が行方不明者を探した跡だという。
この地区では不幸なことに多くの子どもたちが亡くなったという。

作業を終えて宿泊地に戻ると、川縁で天を一心に見つめ佇んでいるお母さんがいた。子どもを亡くされたのだろうかと、こちらは勝手な想像をして、勝手に悲しくなった。彼らの奥底まで入ることはもちろんできないのだけれども、途方もなく深い悲しみを感じえない。自分だったら起き上がって前を向ける日が果たしてくるのだろうか。

どこまでも深く厚く悲しいのだけれども、励まされる一面もあった。

夜にボランティア同士の自己紹介があり、20名くらいの人たちがそれぞれの思いを語った。
東北出身だから、いてもたってもいられなくてという大学生の女性。
関東出身だけど、東北出身の友達もいるし、なにかしたかったという女の子。
親戚が津波でなくなったので、自分がいって役に立たねばとのおじいさん。
内モンゴルで日本からたくさんの植林をしてもらったから、今度は自分が恩返し、とモンゴル人の学生。
週末だけだけど、毎週ずっと来ると熱意を語る、決して近くない300km離れた場所にすむ新潟の人。
文教大学の学生は、一週間の入れ替わりで6、7名の生徒が来ていて、もう4次隊と言っていたと思う。夜行バスで来て、その旅費や寝袋やカッパなどの装備はすべて教員の方の寄付でなりたっているという。
とにかく、たくさんの前向きの善意でここは溢れていた。だからちょっと心が震えた。やっぱり日本は捨てたものじゃないよ、と。若者だってすごいよ、と。

まだまだ深い悲しみにある現地。それは消して消えることはないと思う。
ただ、日常を失わずにすんだ我々ができることは、きっとたくさんあるのだと思う。

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写真はこちらから →Flickr

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