知床エクスペディション

2018年10月。
知床エクスペディションに参加する機会に恵まれた。

数年前になろうか、ニセコのレジェンド新谷さんがオーナーを務める「ウッドペッカー」に仲間数人とお世話になった。その人柄に一同が惚れ、魅了された。「今年を逃したら、もう行く機会がないかもしれないよ。」「絶対参加したほうがいいよ」と何人もの友人が知床を勧めてきた。その機会が与えられ、新谷さんに会えるのが、とてもありがたきことだなと思った。


羽田から一時間のフライトで女満別空港へ着くと、カヤックをバンの上に乗せた新谷さんが待っていてくれた。ウトロへと向かう。
「おーい北海道!」と叫びたくなるような光景がすぐに両脇に広がった。
スーパーで買い出しを済ませウトロのベースに着くと、高台から湾が見える絶景のマジックアワーがお出迎え。こうして我々の知床エクスペディションが始まったのであった。

Day 1
「なるべく怠け者にならないようにしているんだわ。」出発前に新谷さんが言った。怠け者どころか4時半には起きて焚き火を起こしていたに違いない。漁師さんが早く起きるので、シーカヤッカーはのんびりで怠け者だなと思われないように早く用意して早く出るのを心がけていると言う。
7時には荷物の積み込みが完了し、13艇の船と共に羅臼へと出発する。独立峰の羅臼岳が左手に見え、山々では紅葉が始まっていた。羅臼からは北へ、相泊までは30分ほど。ここが今回のスタート地点となった。従来の知床ツアーより日数が少ないのを鑑み、最大の難所である知床岬を超えられなければここに戻ってくるのを考慮しての逆ルートをとるとのことだった。
膨大な共同装備を手分けして積み込むと艇割りが発表され、10時半過ぎに浜を出た。
後日そういえばと気がついたのが、パドルの持ち方も漕ぎ方も、スプレースカートの外し方や沈した後のレクチャーもなかったこと。今回は今日初めてシーカヤックを漕ぐ初心者もいたのだ。究極のOJTスタイルだが、初めての人は経験者にわからないことを聞くし、経験者はお節介ながらもパドルの持ち方や位置、漕ぎ方を伝えるし、そのバランスで成り立ってしまうものだと後々気づいたのだった。その初めての人も右へ左へと蛇行を続けながら一時間もすると慣れてきていた。僕はといえば何年振りかわからないこの感覚を昔の経験を確かめながら楽しんでいた。「カヤックの経験は?」と聞かれ「沖縄と三浦でちょっと」と答えたものの、そういえばと西伊豆に習いに行ったりアドベンチャーレースで漕いだり、気田川や富士川、四万十も下ったことを今更ながら思い出したのだった。10年20年立つと色々忘れてしまうものだなと思うとともに、アクティビティをやれば運転と同じでその方法も思い出せば、想い出も戻ってくることに気付かされたのだった。
海はなかなか穏やかで右手には国後島、左手にはもう道路がなくなった原始のままの半島が続いた。崖は波によって侵食され、熊笹の上に色づき始めた森が広がっていた。観音岩を過ぎると電波も無くなった。これから4日間電波が全く入らない圏外になることが新鮮だった。海外旅行中も日本の山も、しいては南米はアコンカグアのベースキャンプでさえ電波が届く時代の日本において、ここまで俗世から遮断されることはあまりないんじゃないだろうか。その日常との断絶はいい意味でこのツアーをまた別のものにしていると感じた。
進めるなら進んでおきたいとは聞いていたが、14時前にはペキンノ鼻に上陸し、今日はここまでと聞かされた。上陸時に生き絶えたシャケたちがいたるところに打ち上げられている様が新鮮な光景だった。そしてペキン川には手づかみで取れそうなほど多くのカラフトマスが遡上していたのだった。

キャンプ地のすぐ脇でペキン川が流れ、くびれたペキンノ岬という突き出した岬があり、その上には「ヒカリゴケ事件」に由来する鳥居が立っていた。中国の北京に由来するネーミングではなくアイヌ語で尖った岬を意味する「ペケレの鼻」が鈍ってペキンノ鼻と伝わったとのことだった。
赤い鳥居まで登ると国後島がより近くに見えた。もうほぼロシアとなってしまった領土はかつては本当に身近な場所で親戚が住んでいるような距離感だったんだろうな。
夜はシャケのソテーとガパオ風挽肉ライスにスープという豪華な食事だった。指揮官兼監督兼料理長兼ガイド兼・・という様々な顔を持っている新谷さんの一言一句を毎日毎時間聞けるのが本当に貴重な機会だと思う。
今回改めてそのすごさというか、深さに気づく。言葉でうまく表すことはできないが、新谷暁生の存在あってこその知床エクスペディションであり、そこに体験する価値があり、この人無しでは魅力が激減してしまうツアーだと思う。
山や海のフィールドで自分より若い人が亡くなった事を聞くと常に「本当にかわいそうで辛いわ」としみじみと言った。ニセコでも知床でもそうだった。
昨日も今日も「ツアー参加者に免責はとらないようにしている。」と言った。「ガイドとしてやる以上、責任を受けるのは俺だから」と。1980年代にツアーを始めてすでに170回以上の実施、大きな事故はなし。これほど重みのあるガイドの言葉もなかった。

Day 2
4時にトイレで起きて外に出ると雨は止んでいて、火がおきていた。
5時に「起きろ〜」と号令がかかる。昨日ののんびりペースとは違って起床を促されるということは出発が早いのかなと思ったらその通り、6時半出発と告げられた。「行けるところまで行こう」と新谷さん。
朝食はパンとコーヒー、昨日の残りスープ。しっかりと漕げるように意識的に食べる。荷物を持ってきていない分、パッキングは一瞬で終わる。昨日と違う艇になったので、ラダーの調整をしてから、荷物を共同装備の食料と共に船室に積み込んだ。
出艇してすぐに風で流され岩に乗り上げる。南東の風が吹いていて、地形的には斜めオンショア、沖へ導かれるオフショアとは違って強くても安心感があった。
「岩が所々あって水路があるので俺に付いてくるように」と新谷さん。長めの13艇の列となったが新谷さんの航路を目で追った。
海岸にはちらほらと番屋が見える、大きめの番屋群があったので赤池と思って地図で確認すると滝ノ下という地名だった。
うねりがなかなか強くなってきて時折セットのような大きめのものもくる。雨はまだ降らず、国後島は見えていた。おそらく沈後の安全策か、陸に沿って進むため岩の間を縫う進路がとられた。波が上がっているところは隠れ岩があることを認識して避けなければいけない。「全力で漕ぎましょう」と声をかけてラダーをさばき切り抜けなければいけない箇所が三度ほどあった。
二つの滝が見えるところで先頭の隊が直角に曲がり陸に上がり始めた。男滝と女滝、地元ではニノ滝と呼ばれているポイントだという。
時刻にして7時半、出発からは50分しか経っていなかった。追い風のためペースはよく、もう5kmも進んでいた。休憩のための上陸かと思えば強風のため本日はここまでとのこと。朝の7時半にその日の全行程が終了するという実質停滞の一日となった。

新谷さんの動きの早さに全くの無駄がない。こちらはスプレースカートをまだつけている状態なのに焚き火場を作るべく大きな木をのこぎりで切っていた。我々も薪を集め始める。テント場を指示され荷物を出しテントを張り終えると、落ち着いた新谷さんは寝ながらタバコをふかしていた。タープは設置されて焚き火場は整理され、もうヤカンの湯は沸いていた。入れてもらったココアを飲んでもまだ9時である。本も持参してなければ携帯の電波もなかった。熊がいるため長い散歩はできない。酒を飲んで昼寝して会話をすることしかなかった。
昼食はコーンラーメンで夕食は酢豚丼だった。食事は全て新谷さんが作ってくれた。「俺はヒマラヤ行っても隊長をやってもなぜかコックなんだわ」と言った。いくらでも色々と手伝いたいのだが、先回りして全て新谷さんがやってくれるのでやることがなかった。それくらい我らの71歳の隊長は元気で万能だった。
風は強い時で風速7-8mだろうか、吹いたり落ち着いたり、海は常にしけていた。酒を飲みすぎたためか、18時には睡魔が来て寝てしまった。テントのフライシートを打つ雨が強まるのをうつらうつら聴きながら明け方まで目覚めることはなかった。

Day 3
5時に目覚めてフライシートを開けるも焚き火場には人影がなかった。雨は降り続いていた。昨夜の新谷さんの予言通りだった。「南風がこんなに吹いたら、きっと明日は落ちる」徐々に風は収まり、海は昨日よりは穏やかになった。
6時くらいに皆がゆっくりと起きてきた。「コーヒーの蒸らす時間は18秒と23秒説があって俺は23秒の方なんだ」と新谷さん。ヤカンいっぱいのコーヒーができると「お〜い、みんな〜。コーヒーができたから飲んで温まりな〜」とこのツアーで何度も聞くほっこりとする掛け声。布フィルターで淹れたコーヒーは濃くも薄くもなく心から身体を温める知床スタイル。雨は強さを弱め徐々に収まっていった。各々がテントをしまい準備を始める。
8時半出艇、赤岩まで行ったら岬の様子がわかるからまずはそこまで行こうとのこと。ウネリはまだかなり残っていて、大地が高くなっては低くなる。その高低差はセットがくると結構なものである。2艇ほどラダーの調子が悪く、それらが再上陸して修理を待つ間は波に対して艇を垂直にして待機する。
みんな揃ったら真北へ。念仏岩を超えたらカブト岩へ。「団子でワイワイ行こう」という指示から「一列で慎重に」という指示に変わる。最近は中を通れていないというカブト岩の陸との間をするりと抜ける。
かつてはこの岩にカモメがよく産卵しにきていたのだが、それを見つけた熊が泳いで卵を食べるようになってしまい、カモメの数が減ってきたとのこと。逆に熊に見つからない場所に卵を産む海鵜は増えてきているらしい。
テトラポットに囲まれた赤岩の集落が見えてきた。その名だけあって下部がうっすらと赤く見える赤岩と呼ばれる岩が陸からほど近い場所に浮かんでいた。
ここには昆布の漁師たちが最大で300人暮らしていた時代があったという。子どもたちも当時は有力な戦力だったから一緒に働き、むしろ先生が羅臼から出張して住み込みで教えてくれた。それは昭和50年くらいまでのこと。
船のエンジン性能の向上と共にその数は減り続き、今ではほとんど番屋が使われずに廃棄されていく流れにある。
知床というと無人の荒野をイメージしていたけれど、ポツポツとこの番屋が建っていて人の気配を感じさせる。しかしそれも時代と共に変わっていき、廃棄された番屋が朽ち果て自然に戻り、あと数十年したらなにもなくなるのかもしれない。
丘の上にまるで芝刈り機で整備されたような大草原の台地が広がる。それが知床岬だった。上の方にポツリとシマウマカラーの灯台が建つ。ここから2km弱は地形図上はギザギザとした浅瀬となる。従来は風の通り道で一番の難所らしいが、幸い今日は穏やかでないでいた。一列になって新谷さんの辿る熟練の水路をなぞって進む。水はものすごく透き通っていて下の海藻がよく見えた。
夫婦岩、エタシペ岩を超え、ついに知床岬を回る。雨は降ったりやんだりで大気は不安定な状態が続いた。
地図上のウトロ漁港の脇、文吉湾にて上陸。ここには珍しい防氷堤という建造物があり、要は防波堤とほぼ同様のものなのだが、冬の流氷から湾を守るものらしかった。
昼食の塩ラーメンを待つも火がなかなか強くならなかった。そして雨は横殴りに。ようやく出来上がったラーメンを全員で立ったまま雨の中で食べている様がとてもおかしかった。生姜入りのそれは体を芯から温めてくれるとてもありがたいメニューだった。
出艇の頃には急に青空が見え始め夕焼けならぬ昼焼けとでもいうのだろうか。低い空と雲のコントラストも相まって、その中を進むカヤックの絵になることといったら。

広い砂浜が続くポロモイを超え北向きの小さな湾に上陸する。両脇を崖に囲まれたこの湾は知床で新谷さんが一番好きなキャンプ地だという。「なんか、好きなんだよな。なんとなくな。」理由を聞くとボソリと言った。
北側の湾は浅瀬が続き波を避けられ、崖からは湧き水が流れ、西側の磯を超えると絶景が広がった。
相変わらず携帯の電波は届かなかったが16時にラジオを聴きながら新谷さんが天気図を書き始めた。それによると小さな低気圧の塊があり、風が上がるかもしれないとのことだった。
一度天気が崩れたら以降はずっと晴れで穏やかと出発時の天気予報を信じていた我々はもう濡れることはないと、衣類も寝袋も天日に干していた。そこへ知床をなめるなよと言わんばかりか急に大雨が降ってきて、我々を翻弄するのだった。
再びカッパを身にまとい濡れながら夕食を食べることになった。それでも知床岬は超えられたし、明日明後日ちょっと漕げば目的のウトロに着くであろうと安易な考えを抱いたまま眠りについた。

Day 4
何度か激しい雨がフライシートを叩き、前日の教訓からシェラフカバーに寝袋を包んだ。
5時に起きると海からは強烈なオンショアが届き、小雨混じりの暗い空がテントの中から見えた。白波が岩で砕けしぶきを上げ、とてもじゃないが出艇できる状況ではなかった。
「10時までは待機だな、のんびりやろうや」と新谷さんの声。10時までどころではなくその後1時過ぎまで停滞することになった。西向きな厄介な風が続き、今日明日二日しかない中でどのように進路をとるか、風や海流、予報に予想や我らの能力を絡め、見極めようとしている。
12時に三角のタープが畳まれる。いずれにせよ出発が近いと感じとり急ぎテントを撤収して身支度を始める。装備を積み込んで準備完了後に聞くと左に回らず右回りに戻ることが告げられた、ただそれには難所の岬を超えなければいけない。
出発前に珍しく集合して、今日の方針が告げられた。その日の行動計画が事前に告げられるのは後にも先にもこの時だけだった。かいつまむと、今日は難所が2・3あり、2回くらいは何かが起こるかもしれないと考えている、でもその際はすぐに駆けつけるし大丈夫だから安心してくれ、しっかりとパドルを海につけ漕ぎ続けるんだぞ、とのことだった。
二人なのか二回なのか、いよいよ誰かがこの冬の海に沈する事になるのだろうか。
海は以前荒れていて、大きなうねりを伴っていて進行方向には白波がはじけているのが目に見えた。みんな緊張した面持ちで一人づつ湾に出て新谷さんの周囲に固まる。後ろにサポートガイドと経験者が中央に入る盤石の布陣。「大丈夫だからゆっくり着実に行こうや」と新谷さんが声をかけ、右の北東へ進路をとる。ここが大地だとしたら立っているのは困難なくらい、地面が隆起しては変化した。すぐ側の前の人も横の人も海の向こうに消えて見えなくなる。それほど大きなうねりだった。西風を受けながら集中してパドルを漕いだ。「こりゃシビれるシチュエーションだな」と思った。
うねりが左から来るのか後ろから来るのかは予測不能。洗濯機の中ってこんな感じなんだろうか。とにかく集中して全方位に気を使いながらも前に進み続けなければいけない。昨日はあっという間だった文吉湾も今日は彼方に感じ、そしてそれは遠目にも弾ける白波の只中にあった。
「みんなで固まって行こう」「油断はするな」「漕ぎ続ければいいから安心して」「俺よりは中に入るな」「離れすぎるな」「何かあったらすぐ教えろ」新谷さんが要所要所で声をかける。
このような自然の中での危機的状況のときに限って「充足した生」を感じるし、その「生」への自分勝手な執着も湧くもんだなとしみじみと。
パドルから手を離して写真を撮る余裕はほぼなかったが、漕ぎ始めから1時間ちょっと経ってからだろうか。新谷さんが止まりタバコに火をつけた。そして鼻歌を歌いながらまた進み始める。これはきっと我々を安心させてくれるためにやっているんだろうな。
「危ないところは二ヶ所超えたぞ、みんなよくやった。もう一つくらいだ、油断しないでいこう」と言ってからボソッと「ほんとは全部あぶねーんだけどな」と囁いたのは聞き逃さなかった。
岬の周りもうねりと風が続き、「パドルを中から外、油断はするなよ」と掛け声が続く。確かにここで沈したら陸にも近寄れないし絶望的な気持ちになるだろう。しかし景色は雨まじりの昨日よりもきれいで、知床岬にちょうど陽があたり芝が輝いていた。陸にいたら今日がこんな日だとは思わないに違いない。岬を回りきるとようやく風が収まってきた。最後の難所も超えたのだ。
二日前に泊まった二ノ滝につく頃にはすっかり薄暗くなっていた。誰も沈することなく難所を切り抜けたからか、皆海から上がるとどことなく高揚した気持ちになっているようだった。

Day 5
最終日はスタート地点である相泊まで。
撤収にもなれてきて準備が早く予定時間である9時のずっと前に出発となった。海は比較的穏やかで、わいわいがやがやと皆の心にも余裕がある。上半身はTシャツで大丈夫なほど快晴で暖かい。
ペキンノ鼻の手前で上陸し、美しい浅瀬を堪能する。ここから前方の風を感じ始める。メガネ岩を超える頃にはかなり強い風となってきて、出遅れる艇も出てきた。観音岩で昼食を取る。焚き火を激しい風が揺らす。これからもっと吹いてくるだろうとのことで、ウールの上着と防水カッパを羽織る。
岬を曲がると前方から強い風が吹いてきた。昨日みたいな突風ではないが、長く吹き続ける風でカヤックの速度が大幅に落ちる。ここからの最後の7km程は本当に長く感じた。山で言うところの偽ピークもとい偽ゴールが見えては消えた。たった5日前なのに記憶が曖昧で、番屋がすべてゴールに見えた。それでも漕ぎ続ければ進むので牛歩のようにゆっくりと進み続けついには赤い灯台が見え相泊の湾へと到着した。
長いようで終わってみればあっという間だったような。知床時間と誰かが名付けた時間感覚が的を得ている。今がどの時間軸にいるのか宙に浮いて現在が揺らいでいる。名残惜しくもあるが、安堵感と程よい疲れもあり、こうして18名の仲間と過ごした濃密な知床エクスペディションが終わった。

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